幼い頃ははピアノを弾くことが好きだった。楽しかった。
だけど、今は嫌い。
私の両親は音楽関係の仕事をしていて、特に母は有名なピアニスト。兄弟全員、ピアノか
ヴァイオリンを習っていた。その関係で兄弟は音楽関係の学校へ進学。
ご近所さんに有名な音楽一家。
その末っ子が私。
私は、ではなく…
音楽一家家の末娘。
という認識をされてきた。
その認識は…成長すると共に強くなる。
それが嫌で私は兄弟と同じ音楽学校に進学しなかった。
普通の学校を選んだ。
なのにその普通の中学校へ入学すれば、否応無しにピアノ同好会へ。近々吹奏楽部と合併
するとかなんとかで最後の締め部員になってほしいらしい。
そんなことはどうでもよかった。それに私はピアノを弾きたくなかったから断った。
けれど謙遜と勘違いされ受け入れられなかった。
そして、私は演奏することを強要された。
「好きな曲でいいから」
ピアノを弾け…そう指示された。
結果がどうなるか、わかっていた。
弾けるけれど、それだけだもの。私は。
「うわぁさすがさん。お母様のように素敵だわ」
私の演奏を聴いた部員の一言。
そうなの。
私の演奏は「母」がつくの。
私は、母の弾き方しかできないから。
いつから嫌いになったのか覚えてないけど
今はピアノが嫌い。
皆を失望させるだけだから……
1年生で文化祭でのソロ演奏。
そう、期待されていた私はソレを裏切り、そして部に在籍しているだけの存在になった。
一切弾かず、部活にも顔を出さず
そうして2年の月日が流れた。
もう誰も私に演奏することを強要しなくなっていた。
だけど……
3年の秋、見知らぬ後輩が私を呼び出した。
それが…始まり。
++ amoroso ++
3年6組の教室に、私を呼ぶ声が響いた。
「先輩いらっしゃいますか?」
声の方を向けば、見知らぬ女の子。
何事かと思い、立ち上がり、彼女に近付く。
「私がですけど、何か?」
教室のドアの所での立ち話。
込入った話だとは思っていなかったから。
「私吹奏楽部の者なんですけど、今度の文化祭で3年生引退になってしまうんです。それ
で、伝統として文化祭で3年引退公演をしているんですけど、先輩一度も部へ顔を出
されないのでお知らせに来ました」
「……私、まだ部に在籍ってことになってるの?」
「え? ええ、そうですけど」
私の返答に困惑した表情を浮かべる彼女。
2年以上も何もしていなかったからとっくに辞めている事になっていると思っていたのに。
「私、弾くつもりないから」
冷たく言った。
そういうつもりはなかったのだけれど、そういう温度の言葉になった。
「え? でも、もうプログラムに名前書いてしまったし…ソレを提出してしまったし」
「そう……でも」
「顧問の先生からも一度くらいはと言われていますよ?」
「その気はないから」
演奏することは嫌い。
母と同じ音。
そう言われるのは…嫌。
「えっと、先生と相談して来ますので…あの、考えておいてください!」
彼女は必死そうな顔をしていた。
きっとこの子が今の部長なのだろう。部長になりたてで、一生懸命ってところかしら?
本当に弾くつもりは無いの。
私のその言葉を待たずに彼女は一礼すると足早に去って行った。
全くこんな時期にやっかいな事を…
そう思っていると
「さんって、吹奏楽部だったんだ?」
ドアに一番近い席に座っていた人の声。
不二周助の声。
「…だったみたいね」
不二周助は笑みをこぼすと
「だったみたいって…さんっておもしろい人だね」
あなたの顔のほうがおもしろいわよ。
そう言いそうになって口を噤む。
思えば、これが不二周助と初めてまともに会話をした日だったかもしれない。
それから何かにつけて不二は私に話しかけてくるようになった。
部活を引退していた彼にとって私はいい暇つぶしになったのだろう。
そんなある日、もう名前も覚えていない教師が私の元へやって来た。
放課後の廊下。
呼び止められての話。
名前は覚えていなかったけれど、顔は覚えていた。
吹奏楽部顧問。
「3年には記念としてソロを一曲やってもらう慣わしになっているんだよ。特にピアノは
今年で…」
「興味ありませんから」
さっきからずっと文化祭でピアノを弾く事の話をされている。
もう長く続いていた伝統を壊したくないとの事らしい。
「じゃあ、私、部辞めますから。それなら」
「もうプログラムを刷ってしまったんだよ。だから」
「急にそんなことを言われても困るだけです」
「急って言ってももう何ヶ月も前から部では話していたんだ。一度も顔を出さなかった君
にも落ち度はある。中学最後の思い出に一曲くらい弾いてはどうだろうか?」
私にも落ち度はある。
それはわかっている。
けど
「弾いてみてもいいんじゃない?」
私と先生の間に割って入る声。
不二周助の声。
どうしてアナタが話に入ってくるの?
そういう意味を込めて睨みつける。
「なぁ! 不二もそう思うよなぁ」
私の視線を受け流し、不二周助は口を開く。
この男、絶対私で遊んでいる。
「いい記念になるよ。ところで先生、さんは何を弾くんですか?」
「勝手に決めてしまったのだけどよかったかな?」
よくない。
だって何もする気はないのだもの。
「パッ…パッフェ…なんとかのカノンってやつだ。」
「あっその曲僕好きだなぁ」
……。
パッヘルベルのカノン…のこと?
私は嫌い。全部嫌い。
だって…ただ弾くだけではダメなんですもの。
また『母と同じね』って言われてしまうだけだから。
「ということで、。頑張れよ!! の実力なら完璧だと思うがな」
「え?」
「頑張ってね。さん」
不二周助…
どうして貴方が話をまとめているのよ…
「先生、私は――ふっ」
「あ、そう。弾くんだ。さん弾くみたいですよ、先生」
びっくりした。
突然、背後から口を塞がれたと思ったら不二周助のこの発言。
「おうっそうかそうかっ! がその気になってくれてよかったよ!」
と、笑う先生。
ちょっと待って。
私は了承していない。
口に被さっている手に思い切り爪をたてる。
そのままキッと睨みつけると不二は余裕の笑みで私を見下ろした。
手の甲からは血が滲み始めているというのにこの男は…
「さんヤル気満々みたいですね。こんなにはしゃいで」
違うっ
これは、はしゃいでいるのではなく暴れているの!
不二の手が大きくで噛み付こうにも噛み付けない。
爪攻撃はきかない。
蹴ってやろうにも不二が私の後ろにいるから無理。
ジタバタジタバタもがいてみるものの、相手はこんな姿でも男。
しかもスポーツやってた男。
そんなのに女の、しかも何もしていなかった私が敵うはずないじゃない。
「おっもうこんな時間か。引き止めて悪かったな。じゃあ…」
と先生は足早に去った。
その後姿が見えなくなってやっと不二が手を放した。
「さんピアノ弾くんだったら爪切らないと」
「なんてことしてくれたのよ?!」
二つの声が重なる。
「なんてことって?」
「私は弾かないって言っているでしょう!」
「うん」
「なのに」
「僕が聴いてみたかったから」
不二はいつもとかわらぬ笑顔でさも当然と言わんばかりに言った。
「何言って」
「さん、ピアノ好きなのに逃げるから」
「え?」
「あ、ねぇこれから時間ある?」
不二は私の右手を手に取った。
「別に…平気だけど…何よ?」
「そう」
右手にぎゅっと力が入るとそのまま引っ張られる。
「ちょっ…ちょっとぉ」
「いいから。少しだけ」
グイグイと手を引かれて連れて行かれた先は音楽室。
部活生がいるかと思いきや、誰もいない。
「吹奏楽部は体育館で合同練習。ちなみにピアノを弾くのはさんだけ。知ってた? ピ
アノ同好会の人達は去年全員卒業。残っているのはさんひとり」
「だからなに?」
「ピアノは今年の文化祭で終わりってこと。誰か後輩が引き継いでくれれば話は別なんだ
けどね」
「…どうしてそんなに詳しいの?」
握られていた右手を抜き取る。
逃げてもきっと無駄だろう。
それなら話を聞くだけ聞いて、そして別れればいい。
ピアノは弾かない。
「んーそうだな…あっちょっと座って」
と、備え付けの椅子に促される。
断る理由も無かったので、腰を下ろした。
不二は無言で目の前に膝をつくと、私の右手をまた取った。
「なに?」
「あぶないから」
にっこりと微笑むとポケットから何かを取り出した。
小さな何か。
何だろう?
と見ていると
パチン
と音がした。
「ちょっ!」
小さなもの。
それは、爪切り。
「どうしてそんなモノ持ち歩いているのよ?!」
「ずーっと気になってたんだよね。爪」
ふふっと笑う不二。
「あ、動くと深爪しちゃうよ?」
そう先手を打たれて暴れるに暴れられない。
そんな調子で右手の爪が綺麗に切りそろえられた。
「じゃあ次、左ね」
右だけ短いのは気持ち悪いので左手も差し出す。
パチン…パチン……
と、綺麗に揃えられていく爪。
こんなに短い爪は久しぶりだ。
それだけ長い間、ピアノから離れていた…ということだ。
「どうして詳しいか、知りたい?」
爪を切りながら不二は言った。
さっきの事だろう。
「……気になるわね」
「調べたから。さんの所に2年生が来ただろう? あの日から何かイロイロ気になっ
ちゃって」
「そう」
「うん。それだけ」
「本当に、それだけ?」
「鋭いな……確かめたいことがあるんだ」
「何を?」
「1年の時にさ、部活入りたての時だったかな? 球拾いしてたら聞こえたんだ。ピアノ
の音が」
パチン
と、爪切りの音が響く。
「何度かピアノの音が聞こえてきたことはあったけど、一度だけ立ち止まって聴いてしまったピアノがあった。その音が忘れられないんだ」
「そう」
「ピアノの音が哀しそうだったから」
パチン
と音がして、左手も綺麗になった。
不二は爪をゴミ箱に捨て、開けられていた窓を閉めた。
「気になるんだ。今もあのピアノの音は哀しいのか」
「……そう」
「弾いてよ。窓は閉めた。防音だからそんなに音はもれないよ」
「不二君が言っているピアノ、私が弾いたとは限らない。それに」
「さんだよ」
「……どうして言い切れるの?」
「勘」
「バカじゃないの?」
「ねぇ弾いて?」
「いやよ」
「どうして?」
「どうしてって…」
『母と同じ』だから。
昔からそう。
幼い頃はただ褒められた。
成長するにつれ弾き方が似てしまった。
そうなると
「お母様のように素敵ね」
「お母様のようなピアニストを目指すの?」
と言われる。
専門分野の人には
「真似をされても」
「同じものでは…」
そう言われる。
言われ続けて、嫌になった。
母が嫌いなわけじゃない。
尊敬している。
でも
でも――…
「……弾けないから」
「どうして?」
「私ね、母がピアニストなの」
「うん」
「似てるのよ。その母に弾き方が」
「それで?」
「似てる。真似だ。って言われ続けて嫌になった。だから弾きたくない」
「じゃあ、さんのお母さんって哀しい音を弾くんだ」
「え?」
「だってさんのピアノ、僕には哀しい音に聞こえたから」
母のピアノを聴いて哀しそうと思ったことは無い。
母のピアノはどちらかと言えば反対。
楽しそうに、嬉しそうに。
そう聞こえる。
「ねぇ、弾いてよ。聴いてみたい」
「…いや。無理」
「ここには僕だけだし、ね?」
弾かないって決めてたのに…
「…でも、私ずっと弾いていなかったし」
「練習練習っ!」
「でも」
渋っているうちにいつの間にかピアノの前へ。
「さん、ピアノ好きなんでしょ? 好きだから『似てる』『真似』って言われて哀しか
った。違う?」
……そうなの。
本当は、そうなの。
「弾いてみてよ。僕はさんのピアノ好きだよ?」
不二周助…
この男、侮るんじゃなかった。
この男、他人の心に入るの上手すぎる。
「……」
鍵盤を指でなぞる。
久しぶりの感触。
冷たい。けれど、弾いているうちに温かくなる鍵盤。
「何を弾けばいいの?」
「さんが好きなのを」
好きな曲…
「……キラキラ星」
一番最初に一人で弾くことができた曲。
ふと、思い出した。
「あっ簡単すぎる?」
「いいよ。僕も好きだし」
「……そう」
ポーンと音を出してみた。
懐かしい…音。
「間違っても笑わないでよ」
「うん」
両手を鍵盤の上へ。
久しぶりすぎて少し緊張する。
ドキドキしながら弾いてみた。
思っていたよりも指が覚えている。
ちゃんと曲なっている。
「うん。僕の勘は確かだったよ」
「え?」
「あの時聴いたピアノ、さんだ」
「……じゃあ、私今も貴方の言う哀しいピアノ……弾いてるの?」
「違うよ。今は楽しそうだ。でも、さんのピアノだってなんとなくわかるよ」
「楽しそう?」
「あれ? 違った? 楽しそうだって思ったんだけど」
ずっと
ずっと忘れてた。
ピアノを弾くことが楽しいって事を
「ううん…違わない。楽しい」
ピアノを弾きながら笑えた。
本当に久しぶりに。