「っあー!!!!!!!!!」

「癇癪おこさない」

あの日から、あのピアノを弾いた日から私は文化祭に向けて練習を始めた。
ずっと『母の真似事』と言われるのが嫌で逃げていたビアノと向き合うことにした。
やっぱりピアノが好きだから。

不二には練習に付き合ってもらっている。
私が頼んだわけではないのだけれど、付き合ってくれている。
彼にとってはただの暇つぶしだろうけど。

案外不二は耳がいい。
いつだったか母のピアノのCDを聴かせた。
その後、母と同じ曲を弾いたら

「ああ。似てるね」

そうサラリと言った。

「同じ人が違う感情で弾いた感じ。あっでもさんの方がまだまだ下手だね」
「でもよく聴くと違うんだけど…なんていうかさんの音はさんなんだけど違うん
だよ」

抽象的な事も多いが、ズバズバと何でも気付いたことを言ってくれるのでありがたい。



「母の演奏で聴いたことがあるとどうしても似ちゃうのよっ」
ピアノをバーンと叩く。
するとまた「癇癪をおこさない」と叱られた。
「パッヘルベルのカノンも弾いてたんだっけ?」
「ええ。母の好きな曲だし。「このムードが私に合うのよ」なんて言ってたわ」
「へぇ」

何度弾いても弾いても母の弾き方に似てしまう。
真似は嫌なのに……

ポンポンとピアノを弾きながら不二に訊いてみた。

「ねぇ」
「なに?」
「あのさ…不二君はテニスしてたでしょ?」
「うん」
「プレイしている時って何考えてた?」

不二は「そうだなぁ」と考え込むと

「勝つこと。かなぁ」
「あ、そっか。テニスには勝敗あるものね」
「あっそれ以上に楽しかったけど」
「楽しい?」
「うん。楽しかった。あ、さっきは「勝つこと」なんて言っちゃったけど、実際プレイ中
は何も考えてないよ」
「勝つことも?」
「勝ちたいとは思うけど、必死だからね。テニスに」
「ふーん。ねぇテニスでもプレイスタイルで真似とか言われたりする?」
「しないかなぁ。そういうブレイをする人もいるしね」
「真似ってこと?」
「うん」
「へー」

そっか、テニスは真似って言われないんだ。

「真剣にプレイしてる人には何も言えないよ」
「ふーん」
「練習いいの? もうすぐ学校閉まっちゃうよ?」
「ああっ」

時計を見れば校舎閉館まであと10分だった。
家でもピアノは弾いている。しかし長年触ってすらいなかった。時間はいくらあっても足
りない。それでも文化祭の日は迫ってくる。

練習といっても、もう曲は弾ける。
ただ、似てると言われたくないから。
私の音を探す練習。

「今日はもう終わり。片付けしていたら10分なんてあっという間だし」
「そう? じゃあ片付けて帰ろうか」

練習をしだしてからずっとこんな感じ。
頼んだわけでもないのに付き合ってくれて、その後一緒に帰る。
不二の家と私の家は方向は同じ。だからだろうか? 送ってくれる。
送る。と言っても家の前までではないのだけど。
だって、ねぇ。
さすがにそんな所まで送ってもらうわけにはいかないじゃない。


「ねぇさん」

学校を出てどれくらい経っただろうか。
もうすぐ私の家。
あの角でいつも別れる。

「ん?」
さん、ピアノ弾いて楽しい?」

そう
別れる直前に彼は言った。

「え?」
「キラキラ星…をさ、弾いている時は楽しそうだったんだ。でも、今ピアノに向かう
さんの顔……凄いよ?」
「すごい?」
「ここ」

不二の長い指が私の眉間に押し当てられる。

「手塚みたいな深いシワ」
「え゛?!」

優しく眉間を撫でられて

「そんな顔して弾いてるから、うまくいかないのかもしれないよ?」

いつもと同じ…
優しい笑顔を向けられた。

その瞬間、体が固まった。

そんなに私を見ていてくれた。
眉間のシワなんて…そんな些細なことにまで気付いてくれた。

「……」
「楽しく弾こうよ。まぁあの曲は楽しくって雰囲気じゃないけど。でもさ、ほら、音楽っ
て音を楽しむって書くだろう?」

クスクスと笑う不二。

「ね?」
「……うん。ありがと」
「お礼なんていいよ。僕もピアノ聴けて嬉しいし」

ふっと心が軽くなる。

そういえば私ピアノを弾くときいつも頭に出てきたの。母の顔が。母の音が。

「じゃあまた明日」
「うん。ありがとう」
「だから、いいって」


不二の一言に救われた気がした。

『楽しく弾こうよ』

この一言を私は求めていたのかもしれない。







翌日から私の弾き方はかわった。
微妙にだけど、かわれた。

「うん。似てるけど、別人って感じ。僕は好きだよ」

不二もそう言ってくれた。

長年の弾き方のクセは抜けなくてまだ似ているけど、でも『別人』と不二は言ってくれた。
それが、とても嬉しかった。


「ねぇ不二く…」

何かを言おうとして彼に話しかけた時だった。

不二はいつも私の斜め後ろに椅子を持ってきて座る。
そして聴いている。

その彼が、眠っていた。

午後のあたたかい日差し、うとうとしてしまうのは仕方が無い。

私は少し休憩しようと思ったけれど、少し考えてピアノに向かった。
できるだけ静かに、うるさくならないように、彼が起きないように。
子守唄を弾いた。


すると、

「……いい音」

寝ているはずの彼の声が聞こえた。

「あっごめん。起こしちゃった?」

慌ててやめようとすると

「続けて」

と、半分眠そうな声が……

いいのかな?
と思いつつも、引き続けた。

しばらくすると、かすかな寝息が聞こえてきて、なんだか嬉しくなった。

文化祭まであと3日。
こんなにおだやかな気持ちでいられるのは、きっと不二のおかげ。

あの時、演奏を断っていたらなんだか嫌な気分で過ごしていたと思う。
渋々引き受けて、一人でピアノに向かっていたら……色々な意味で孤独だったと思う。

不二がいてくれて、助かった。
よかった。

不二の気まぐれに感謝。
あなたが私を気にかけてくれたこと、今はとっても感謝しているよ。




「っあぁ! ごめん」

校舎が閉まる30分前に不二は目を覚ました。
私は、というと楽譜を手にとってソレを見ているフリをして不二の寝顔を見ていたのだけ
れど…


「おはよ」
「起こしてくれればよかったのに」

不二は恥ずかしそうに笑う。

「そんなことできないよ」
「あ、ねぇ」
「なぁに?」
「ブラームスの…子守唄…弾いたりした?」
「うん」
「夢じゃなかったんだ…」
「なに? 寝ぼけてたの?」

真剣に呟く不二の顔を見て、笑ってしまう。

「凄く…綺麗な音だった」

不二の口から零れ落ちた言葉にドキンと心臓が鳴る。

「なんだか幸せな気持ちになれたんだ。ありがとう」

「え? えと」

「きっとさっきの音がさんの本当の音なんだよ」

心臓がドキドキする。
何故だかわからないけど、とてもドキドキする。

「あ…わかった」

不二がポンッと手を叩いた。

「『感情』じゃない? 音楽って感情を込めるもの…だよね? 今までの音にはお母さんの
ピアノに似ていると言われ続けた哀しさがこもっていた。だから僕には哀しく聞こえたん
じゃないかな? さっきの音からはその哀しさは感じなかった。ねぇさん、何を考え
て弾いていたの?」

「……え?」

何を考えてって…
そう言われれば、さっきは弾きながら母の事を思い出さなかった。
だって、ずっと

ずっと

「えー…と……わかんない……かな」

言えない。

ずっと…

「ソレさえわかれば、さんのピアノが弾けるようになると思うよ。文化祭まであと3
日、頑張ろうね」




不二のことを考えていた…だなんて



さん?」


急に顔が、体が熱くなる。

私、もしかして

まさか

「どうしたの? 顔が赤いみたいだけど」

ちょっ…
どうもしないから
だから

それ以上


「近付かないでっ!」


バサッと紙が舞う。

心配してくれた不二に楽譜を投げつけてしまった。


「…………」


どうしよう。
私、私…


「……ごめん。ちょっと僕が距離間違ったね。最近ずっと一緒にいれたから勘違いしてた
みたい」


違うの。
違うの。
私――…


「ごめんね、さん。でしゃばりすぎた。もう邪魔はしないから、だから続けて、練習」


違うの。

ちがうの。


「これ以上ここにいても邪魔…だよね。あと3日しかないし…うん、ごめん。それじゃあ
僕はもう行くね」


ちがうの。

わたし

わたし


「文化祭、楽しみにしてるから。……じゃあ」


不二は少し悲しそうに微笑んだ。
散らばった楽譜を拾うとそっとピアノの上に置いて
そしてゆっくり音楽室を出て行った。

パタンと扉が閉められた後、私はずっと動けなかった。

動けるようになったのは、閉館の放送が流れた頃。

ひとつの確信が涙になって溢れ出た。



ああ、私、いつの間にか不二のこと好きになっていたんだ。



その気持ちに気付いたら急に恥ずかしくなって、あんなことをしてしまった。



「もぅ…私…バカだなぁ…」



不二が拾ってくれた楽譜を抱きしめる。



「……もぅ……一緒にいれないのかなぁ」



私と不二を繋ぐものはピアノだけ。



「……不二君……ごめんなさい」



ピアノがなくなったら



繋ぐものは無いの。



もう、無いの。




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